ユニフォーム

法大OB、4氏によるユニフォーム談義

 

ユニフォームについての法政大学野球部OBである4人の先輩方にお話を伺う事ができました。4氏は、戦前、戦後において苦労を重ねながら野球部に在籍し活躍した方々であり、当時のユニフォームについてはもちろんのこと、戦後の野球部についての様子など貴重なお話をしていただきました。そこで、時期は多少偏ってはおりますが4氏の対談を交え、ユニフォームを中心に当時の状況について取り上げていきたいと思います。

 
牛窪 栄吉氏 (昭和19年卒)
関根 潤三氏 (昭和25年卒)
玉本  廣 氏 (昭和25年卒)
田辺 恕夫氏 (昭和28年卒)

   昭和18年4月、第2次世界大戦によって、文部省より六大学リーグ解散が伝達され法政大学も解散を余儀なくされます。その2年後の昭和20年8月に終戦となるわけですが、当時、ユニフォームはどのような感じで使われていたのでしょうか?

関根: 解散によって野球ができなくなって、各先輩方がユニフォームを自宅へ持って帰られたんですよね。それで、戦後に急に野球をやるということになって、先輩方の所へユニフォームをもらいにいったんです。
田辺: 解散の時に野球部でユニホームを集めて返還したけれど、空襲で合宿所が焼けてユニフォームも一緒に焼けてしまったようです。でも、それ以前の古い先輩は記念として各自ユニフォームを持ち帰っていたらしいです。
関根: そういうわけでユニフォームは寄せ集めだったんです。終戦直後の昭和21年、春のリーグ戦では、クリーム色のユニフォームとグレーのユニフォームの両方が使われていたんですよね。
牛窪: 我々の頃(戦前)は、クリーム色のユニフォームを着ていたなぁ。
関根: 戦前、グレーのユニフォームはあったんですか?
玉本: グレーのユニフォームは新人戦用だったと聞いたよ。あの頃のベンチ入りは20人で、クリーム色のユニフォームは寄せ集めても15着しかなかった。あとの5着はグレーのユニフォームだったけど、その5着を自分達一年生が着ていたよ。法政だけが2色のユニフォームを着ていたんです。
関根: 何と言っても合宿所が焼けてしまったことが大きかったですね。
田辺: 現在のバックネットの後ろにあった合宿所が、空襲で焼けてしまったんです。あれは昭和20年の3月だったかな。
関根: 空襲でユニフォームが焼けてしまって、先輩のユニフォームを集めて使うことになったけど、2,3年は同じユニフォームを着てましたよ。
牛窪: そうかもしれないね。
関根: それで、昭和23年秋、通算6回目の優勝を果たした次の年に、新しい薄い生地のユニフォームを作ったんです。ペニャペニャの滑り込むと切れそうなユニフォームでした。
田辺: 昭和24年、春のリーグ戦から新しいユニフォームを着たんです。
牛窪: それまでのユニフォームは、ネルっていう厚い生地で出来ていて、厚い生地だったから夏はすごく暑かったよ。今のようなメッシュなんてなかったんだから・・・。
関根: だから新しいユニフォームにして一番困ったことは、春の終わり頃から夏にかけては涼しくていいんだけど、秋になると寒いんですよね。みんなそれまでの厚い生地に慣れてるからね。そうして昭和24年には新しいユニフォームが出来たけど、それまでは法政大学は先輩のお古だったから、サイズが合わなかった。それにグレーとクリーム色の2色のユニフォームだったから肩身がせまかった。他大学は合宿所は焼けてないし、ユニフォームもかっこいいのがきちんとある。だから他の大学がとても羨ましかったね。
牛窪: ストッキングなんて虫食ったようなのはいてたなぁ。
関根: すごく悔しくてね。でもあれはいい励みになりましたし、先輩のユニフォームのおかげでプレーができたんですよね。